保健室の出来事は浩介の頭から離れることはなかった。だからといって、何ができる訳でもない。勿論、弥生はそんな隙は見せない。
だが、夏休みになると、事情が変わる。
「おはよう」
今日は二人だけの自主研究の日。弥生はポロシャツにジーンズ。普段とはまるで違う。
「先生もそんな恰好するんだ」
「たまにはいいじゃない」
「へへ、きれいですね」
「ふざけないで」
こんな調子で始まったが、今年の教材は紀貫之の「伊勢物語」。だが、これが問題だった。男女の恋愛が中心だから、「契り」など、いろいろな言葉が出てくる。
むかし、男、かたゐなかにすみけり。
男、宮仕へしにとて、別れ惜しみてゆきにけるままに、三年(みとせ)
来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろにいひける人に、
「今宵あはむ」とちぎりたりけるに、この男来たりけり。
「この戸あけたまへ」とたたきけれど、あけで、歌をなむよみていだ
したりける。
あらたまのとしの三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕(にひまくら)すれといひいだしたりければ・・・・・
弥生は「梓弓」のページを広げると、さっそく「訳して頂だい」ときた。
「はい。男が三年間帰って来なかったので、女が待ちくたびれていたところに、とても親切に言い寄る男と、『今夜会いましょう』と結婚の約束していた日に、男が帰って来た……あなたを待っていたのですが、他の男と、あ、いや、交わる、えっ、あ、困ったなあ……」
「どうしたのよ?」
「え、だって、交わるって」
「結婚するって訳したら?」
「でも、新しい枕だから」
実は昨晩予習をしていた時、「契り」の意味が、「約束する」とか「結婚する」という意味の他に、「男女の交わりをする」などがあることを知り、弥生を思い浮かべ、あらぬことを妄想していた。
「新しい枕、それは結婚するから枕も新しくするでしょう」
「はあ」
浩介の頭の中では「結婚 ⇒ 枕を新しくする ⇒ 二人で寝る」、それが自分と弥生になっていた。だから、思わず、「先生と契りたい」と呟いてしまった。
「えっ」と弥生は顔を上げたが、浩介は「あ、いや、な、何でもないです」と言ったものの、顔が赤くなっていた。
他の生徒だったら、間違いなく「嫌らしい」と軽蔑され、「もう帰りなさい」と言われるのだが、なぜか叱られることはなかった。
そして、一つの「事件」が起きてしまった。
夏休みも残り1週間となった時、「じゃあ、今日はここまで」と教材を閉じた弥生に、「先生、これ」と、浩介はリボンの付いた包みを差し出した。
「えっ、何? 私に?」
「だって、誕生日でしょう」
昨年の夏休み、同じ自主研究の時、弥生が「今日、お誕生日なの」と言ったことを、浩介は覚えていた。
「へへ、高くないけど」と浩介は照れ臭く笑ったが、弥生はその包みを抱えたまま、暫く言葉が出てこなかった。
40歳の既婚の教師。校内では〝冷血な媼〟と煙たがれ、家庭では夫も子供でさえ無関心なのに、この子は……弥生は嬉しくて涙が出そうになっていたが、それを堪えて微笑むと、「何かな?」と包みを解いた。
現れたのは淡いピンクのポロシャツ。浩介の言うように、ブランド物ではない安物だが、弥生は「わあ、こんなの欲しかったのよ」とそれを広げると、体にあてがって、「どう、似合うかしら?」と窓のガラスに写して喜んだ。
授業中は勿論、こうした自主研究の時でも、弥生は決して隙を見せなかったが、その彼女が初めて見せた素顔だった。
そんな弥生を見ていると、急に自分だけのものに思えてきた。そして、頭に浮かんだのは、保健室でのこと。もう堪らない。「わあー」と叫んで抱きついてしまった。
弥生は、「こ、浩介君……」と慌てて身を捩ったが、興奮している浩介の力は強く、振り解けない。「ダメ、ダメだったら……」と揉み合っているうちに、唇と唇が触れ合ってしまった。その瞬間、浩介を突き飛ばした弥生は「バカ!」と言って、右手で彼の頬を叩いた。
そして、「全く、もう、何をするのよ……」と言いながら、教壇に戻ると、「ご、ごめんなさい」と謝る浩介に目もくれず、教材を抱えて出て行ってしまった。
浩介は顔が青くなっていた。停学、いや、退学かも知れない。もう終わりだ。がっくり肩を落とし、床に落ちていたポロシャツを拾うと、残された包み紙も一緒にカバンに押し込み、足取り重く教室から出て行った。
一方、職員室に戻った弥生も悩んでいた。
先程のことは浩介君が悪い。だけど、自分もポロシャツを貰って、「嬉しい!」と立場を忘れて、はしゃいで、隙を見せたではないか……
騒ぎ立てたら、彼の将来まで奪ってしまう。それは教師として、してはいけないこと……
だから、このことは誰にも知られてはいけない……
翌日、恐る恐る教室に行くと、待っていた弥生は「では、始めます」と教材を広げたが、以前のような打ち解けたような感じはなく、寒々しい空気が漂っていた。浩介は生きた心地のしない辛い時間だった。